tushuhei blog

上手くいかないのは、誰かのことを見すぎているからかもしれない

研究が上手くいかなかった修士時代

大学院の修士課程に在籍していたころ、僕は研究がうまく行かずに悩んでいた。 研究をするために必要なスキルが足りないわけではない。 情報系の研究室だったが、研究をするのに必要なプログラミングスキルはあったし、 英語の論文を読むことも苦ではなかった。 しかし、どの方向に作業を進めればいいのかまったくわからなかったのだ。 研究室の学生が進捗を報告する研究会が毎週あったが、そこに出席することが嫌で嫌で仕方がなかった。

研究会では指導教官とのディスカッションがある。 一応、ディスカッションを通して少し次に進むべき方向がわかったような気になる。 そして、自分なりに進めてみて、次の研究会で報告してみる。 すると、自分のやってきた作業がまったくの見当違いであったことを指摘される。 そもそも、研究は作業ではないので、誰かが明確に作業内容を教えてくれることはない。 「あのときは『こういうことをやってこい』という意味だと思ったんだけどな・・・おかしいな・・・」 と首をかしげながら研究室を後にする日々が続いた。 そんなことにはお構いなしに論文の〆切は迫ってくる。 おそらく、研究でつまづいた経験がある人にはこの辛さを共感してもらえるのではないかと思う。

これと同じようなことは仕事でも起こりうる。 仕事では明確に作業内容が指示されることも珍しくはないと思う。 しかしそれでも良い仕事をしようと思ったら、自分に何を求められているのかを察知し、期待に応え、超えていく必要があると思う。 ただ、それが自分を満足させるための独りよがりの作業になっていた、なんて経験がある人もいるのではないだろうか。僕にはある。 良い仕事だと思ってやっていたことが、チームとして、会社としてのインパクトにはつながっていなかった・・・ と後から気付かされるような経験である。 上司の期待に応えようとしているのに、空回りしてしまうという話である。

ところで、そんな風に研究に追い詰められていた僕だったが、結局は無事修士論文を書き上げて卒業することができた (その後博士号も取った)。 僕の中で研究が好転し始めたターニングポイントは、指導教官からのメールに書かれていた以下の言葉を見たときだったと思う。

研究は基本的に自分でやるものですし、困難があれば自分で乗り越えて解決するものです。

まあ、見放されたっちゃ見放されたかんじもしなくはないが(笑)、「そりゃそうだな」と変に納得してしまった。 すると、自然と自分の中でこんな言葉が浮かび上がってきた。

そうか、これは自分の作品を作っているんだ。

誰がなんと言おうと、これは僕の作品なのだ。 僕は当時も今もウェブサイトを作ることが大好きで仕事にしているが、論文を書くのもひとつの作品を作るという意味では同じことなのだ。 誰かの意見や考えに迎合するために作品を作っているわけでもなく、自分が納得する良い作品をつくる。 ただそれだけのことである。 フォーマットは違えど、論文もひとつの自己表現のツールなのだ。

そこから吹っ切れた僕は、その後の4日で一気に修士論文の初稿を書き上げた。 もちろん自信がない部分も多々あったのだが、自分の作品を作るというゴールを見据えていれば、なんとか乗り越えることができた。 もしかしたら指導教官のイメージしたものと違うところがあったかもしれない。 でも、そんなことは本来関係ない。その作品をつくるのは指導教官ではなく自分なのだ。 もちろん周りからアドバイスをもらうことは重要だし、作品を良くするのに有用だと思えば取り入れるべきだが、 意見が食い違うことを恐れずに自分が良いと思うものをつくるのが基本だ。 その後、修士論文で書いた内容は推敲を重ねた結果、最終的に KDD というデータマイニング分野でのトップ国際学会に採録されることとなった。

何が起きたのか

さて、このとき僕の中に起こった変化とは一体何だったのだろうか。 それは、僕の向いている方向が、期待を満たしたい誰かから、本当に向かうべきゴールに変わったということなのだと思う。 すこし観念的になるが、図を使って説明してみたいと思う。

研究に行き詰まっていたときの自分は、とにかく指導教官(ここでは一緒に研究を進めるという意味でパートナーとしよう)の方を向いて作業をしていたのだと思う。 何をすれば彼/彼女の期待に応えることができるのだろうか?このコメントはどういう意味なのだろうか? そんなことを念頭において、期待されていることを推測しながら作業を進めていたように思う。

しかし、このときパートナーは必ずしもあなたの方向を向いているわけではない。 彼が向いている方向、そして僕が向くべき方向は、僕達のゴールつまり論文を書き上げることだ。

このことを自覚したとき、僕もはじめてゴールのほうを向くことができたと感じている。 おそらく、これは研究だけでなく仕事にも共通することなのだと思う。 チームの中の特定の誰か(たとえば上司)ではなく、チームとしてどこに向かうべきなのか。 特定の誰かからチームのゴールに向いている方向を変えることができたとき、自分の仕事のインパクトは最大化するのだと思う。

そして、最終的にこのゴールはどんどん遠くなっていくのが理想だと思っている。 仕事の文脈で言えば、チームの目標から会社の目標へ、そしてその業界の目標へとだんだん広がっていくイメージだ。 さらには世界のため、人類のためと大きくなっていくのかもしれない。

アドラーは自らの述べる共同体について、家庭や学校、職場、地域社会だけではなく、たとえば国家や人類などを包括したすべてであり、時間軸においては過去から未来までも含まれるし、さらには動植物や無生物までも含まれる、としています。

嫌われる勇気』より

アドラー心理学では、対人関係のゴールは共同体への貢献感が得られることだとしている。 あくまでこれは人生における幸福を考える上でのモデルの一つだが、検証してみる価値があるものだと思う。

家族のゴール

・・・ところで、いま僕の妻のお腹には新しい命が宿っている。 これから僕らの家族は、二人から三人に増えようとしている。 ここにおいても、特定の誰かではなくゴールを見ることが重要なんじゃないかと思い始めている。

夫婦二人がそのまま家族の構成員であるときには、お互いのことを見ていれば家族としてはある程度機能するのだと思う。 そこには二人しかいないわけだし、それぞれのやりたいことを尊重できれば、それがほとんど家族としてのゴールに向かっていることと同義になることも多いだろう。

しかし、家族が三人になったら話は違う。 生まれてくる赤ちゃんのことだけを考えて、赤ちゃんの方だけを見ることが正解でもない。 かといって妻の方だけを向くことも正解でもないだろう。 もちろん、それぞれサポートが必要な時期があるわけだから、そこにリソースを割くことは当然だ。 しかし、その結果家族の誰かが犠牲になるのも違う。

ファミリーファーストとは「子どもの幸福を最優先にして家庭の意思決定を行うのではなく、家族メンバー全体の幸福度の総和を最大化することを目指して、家庭のすべての意思決定を行う」ということです。 いっぽう、チルドレンファーストとは、「親が多少犠牲をはらってでも、子どもを最優先して意思決定しよう」ということです。

育児は仕事の役に立つ 「ワンオペ育児」から「チーム育児」へ

家族としての幸せという方向に、三人そろって向くことができること。 夫婦のキャリアを犠牲にすることなく、健やかに子供を育てることができること。 もちろん家族の幸せの形はそれぞれだと思うが、三人にとっての幸せに向かって歩んでいけたらと思う。 もちろん、すべてを叶えることはかなわないだろうし、将来何が待ち受けているのかは夫婦ふたりとも想像がつかない。 ときには、思い描いていた形にならないこともあるだろう。 しかし、家族の幸せに向かって歩んでいけば、他のものもついてくるのではないかと思っている。

さいごに

以上、研究、仕事、そして家族の話と遷移しながら、ゴールを見ることの大切さについて述べてきました。 もちろんこれは自分の中でも暫定解であり、もしかしたら将来、ここで書いたことが全然的を射ていなくて愕然とするかもしれません。 ただ、修士論文のときに感じた打開感は本物ですし、さまざまな困難に共通するものなのではないかと思い、ここに書き留めました。 もし誰かのより良く生きるためのヒントになれば幸いです。